ホウセンの煩悩箱

相場と煩悩 うぬぼれと内省の無限反復

死んだ人のために、とは本当にその人のためなのか

亡くなった方に対して「追悼供養」的な歌を歌ったり、経を読んだり

「これであの人の魂も成仏できる」


本当にそうだろうか。

僕は嘘だと思う。

死ぬことは最大のネガティブな事象だと捉える一般常識がそうさせるのだろうと理解しているが、人間としての生が一番幸せだとなぜ言えるのだろう。

私たちは死んだことがない。

なのになぜ人間として寿命を全うすることが最上の絶対の幸福だと言えるのか。

死んだ方がもっと素晴らしい世界に生まれることができる、という見方ももちろんあるはずである。


仏教では人間として長生きをすることは業が深い、罪深い因縁に恵まれたから、迷いの世界である人間として長く留まることを果せられている、という視点がある。


物事は移り変わる。大切な人が死ぬ。友達が死ぬ、親が死ぬ、子どもが死ぬ。

たしかに悲しくて、納得いかなくて、もっと共に時間を過ごしたかった、

ありがとう、と一言言いたかった、、

もちろん想う。



でもそんなこと、生前にいくらでも伝えるチャンスはあったハズだ。

「その人がそこにいる」

という事象を当然のこと、ありふれた当たり前のことと軽視していた自分自身に、原因があって責任がある。外部要因ももちろんあるだろうが、それは単なる縁でしか無い。



自分の都合の良い側面だけを拾って、自分の常識の及ぶ範囲内で納得したいだけなのだ。


亡くなられた方の姿を思い出して、自分は何を気付かされ、何を教えられたのか、それが何か新しい発見のきっかけになって

「そうだったのか」

と気付かされるとき、振り向かされる時

それは亡くなられた方が仏となって、私にはたらいて下さっている。


だからありがとう、と手を合わすんじゃないだろうか。





合掌 称名