ホウセンの煩悩箱

相場と煩悩 うぬぼれと内省の無限反復

宗教とは生活様式の幻想

f:id:syurado_housen:20190818193534j:plain f:id:syurado_housen:20190818193613j:plain

出かける前に抹茶を一服。今日は親しくしているお寺で講演。

このお寺、30年前から中学生を対象にした勉強塾を経営していて、私が入寺した5年前から毎年講演依頼を受けている。

テーマは毎年「自分を見つめる」ということで、beatboxのパフォーマンスと中学生に向けた話をさせてもらっている。beatboxなんてまだまだニッチな分野のパフォーマンスだけど一応地方都市のチャンプとしてカルチャーの素晴らしさと奥深さは紹介。

で後半のお話しは、「とにかくまずやってみろ」「自分を一般常識の範囲で決めつけるな」「10年続けろ」ということをクドクドと。。

常識なんかクソ喰らえ、組織の序列は破壊して下克上するためにある、人からなんか言われてもやると決めたらやる、という、根がアウトサイダーなので、たぶん共感は得られなかったと思うし、毎回こんな感じで適当だけど、3万円やるからと毎年依頼される。楽しいからいいか。

お寺に戻ると電話。

こないだの葬儀の喪主様から「帳消し参りというのをしないといけないと周りから言われたもので…」ということだった。

帳消しとは昔の役所台帳のようなものから、死んだ人を名簿から消してもらうというもので、市役所のような役割を担っていた江戸時代の寺院事務の名残りである。

当然、現在では帳消しする「台帳」自体が寺にはないので、形骸化した形式だけの「名残行事」であるから、寺院収入にすがりつくタイプの住職なら「必ず帳消しに来て下さい(お布施が欲しいから)」というけれど、私はそれはウソだと思うので、どうしてもやりたければ来て下さい、来なくても問題ありませんよ、とバカ正直に喪主様に説明した。

で、それじゃ辞めときます、とくるかなと思ったら、

「いや、地域の◯◯さんはやったと言っていたし、あそこのお婆さんもやったと言っていたから、やっぱりやっておかないといけない気がして、、お願いします。。」

ということで、びっくりしてしまった。

信じられないと同時に、お寺にお金が入るから経営的にはなんも文句ないどころか有り難いけれど、これが日本人なんだなぁと改めて感じさせられた。不思議だ。

私が僧侶になったのは、当時付き合っていた妻が一人で寺を背負い込もうとしてるのを見て、少しでも負担を軽くしてやりたいなと思ったのと、真宗の教義がとてもアウトサイダーな教えだったからだ。悪人正機説なんて、狂人と聖人の間にギチギチに張られた糸の上を綱渡りするような教えである。人間の表に出せない反社会性と真正面からぶつかり受け入れることでしか救いは成立し得ない教え。とてもイカれてて、素晴らしい教えだ。

でも、実際はこの電話の喪主様のような門徒さんが95%だ。教義に感銘を受けたワケじゃない(むしろ全然知らない・興味ない)、地域の集団心理からはみ出さないように、それが正解だからと言われれば、そうしないといけないと信じこむ。

まあ、皆さんがそれでいいのならいいけど…日本人の気質がこのまま変わらないのであれば、寺院消滅と言われる近未来も、寺はしぶとく生き残っているのかもしれない。