ホウセンの煩悩箱

相場と煩悩 うぬぼれと内省の無限反復

雑毒(ぞうどく)の善の自覚ない日本人

ベトナムさんが人間の矛盾性について動物の命を題材にブログを書かれていた。

人間はどこまでも自分の都合が最優先の生き物である。また、自分は正しいと思いたい生き物でもある。

放置された金魚の命は確かに可愛そうと思うけど、祭りの出店で金魚すくいのプールをみて「可愛そう」と思う人はどれだけいるのだろう。
その横の出店で焼かれている焼き鳥をみて、ニワトリ可愛そうと思うヤツがどれだけいるのだろう。

そのニュースを見て、金魚が可愛そうと思う人は、どういう神経をしてるのか疑ってしまうし、それを流す局の生命観・生死観があまりにも稚拙なのではないだろうかと思う。


動物愛護団体の投稿するSNSにイイねを押しながら焼肉を食うのが私であり、それに輪をかけて「この肉は硬い」とか思うのが浅ましい自身の本当の姿じゃないだろうか。

表ヅラは立派そうな僧侶のカッコをしていても、お参り先に美人のご婦人や可愛い女子高生がいると「ヤってみたい」と脳裏をよぎるのが私の本性であり動物としての本能で、それをひた隠しにすることは、かえって醜い姿だろう。

ボランティアもそうだ。尊い行いではあるけれど、「これ以上はできない」というハードル(条件付き)のある「善」だろう。


これを、中国の古い高僧「善導」は、「毒の混じった善」と言った。どんなに立派な行いも、熾烈な修行も、わずかでも自分の都合が絡めばそれは善ではない。それどころか毒になる。という。


イイことをやった、という気持ちは、すぐさま加速して、自分の手柄にしてしまう。そしてあっという間に自分に酔う。

金魚の命が可愛そう、なんて、よくニュースにできたな、と思う。
酔っている人は、自分がどれくらい酔っているのかわからない。

他を殺さないと生きていけない世界で生きているのだ、という自覚をベースとして、つつしみと敬いの心を忘れないように、というところまでテレビで言い切って欲しいものだ。


改めて、自分も気をつけないといけないと思わされる。