ホウセンの煩悩箱

相場と煩悩 うぬぼれと内省の無限反復

自害害彼

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今日はお昼から拙寺の法座だ。

法座というのは、寺で坊さんの話を聞く集まりだが、基本的に地域の付き合いでめんどくさいが仕方なく来ているじいさんばあさんが8割だと思う。

しかし中には真剣に、また非常に深い関心をもって聴聞に来られる方もいらっしゃる。
そういう方のため・そして自分自身が仏教を聞くためにやっている。



リアルな話をすると、法座というのは基本的に、外部から講師として縁のある僧侶にお説教をお願いすることが一般的。
うちも私が入寺して3年くらいはそうしていたが、金がかかる。やはり最低でも1時間のお説教で4-5万は包むのが礼儀の世界。それに交通費なども添える。そうするとお参りが少ない日なんかは赤字になる。お供えものとか花とか結構出て行くからね。




自分がお説教によんでもらうことも年に数回ある。12万包まれたこともあった。嬉しくも、自分の不勉強・力不足を猛省させられた。


それから、貧乏寺の赤字縮小と自分を嫌でも勉強させるため、毎月自分でお話しをするようになった。

毎回同じ話だとバレるので、毎回一時間分の違う話を用意する。

そうなると自分の経験した範囲での例え話なんかすぐネタ切れになるので、書籍やユーチューブにアップされている真宗法話を完コピしてそのままトレースするということになってくる。


仏教の話というのは2500年前、釈尊の弟子たちへの説法が全てである。弟子の能力・性質に応じて、因果の法則をもとにお互いが傷つけ合う生き方を超えてゆく生き方を、それぞれに説いた。そのそれぞれの違いが、今日の仏教宗派の枝分かれであり、もとはひとつである。


だから最近は違う宗派の本も読むし、浄土真宗内であっても10派に分かれているので、他派の先生の話も聞く。

それを何度も聞く。何度もノートに書く。実際に話す。という完コピ作業を繰り返すことで、自分の身体に仏教を叩き込むのである。



今日は通仏教的な話、自害害彼、他人を傷つけ、また自分をも傷つけてゆく痛ましい生き方を超えてゆく道。ベタだが「王舎城の悲劇」の阿闍世と提婆達多の話をしようと思う。

釈尊在世中のノンフィクションが元になった経典だが、物語として普通に面白い、ドロドロの人間関係が登場する。








一生懸命に生きていく中にわざわざ苦しみの種を蒔いているのがこの私だ。それは、都合のいいことは受け入れ、裏を返せば都合の悪い事実は取り除こうとする、その分け隔てる心が不安をつくりだす。

後ろ指さされても、そうです後ろ指さされても仕方ないような、目先の欲望、怒りや憎しみばかりの浅ましい生き方しか私はしてこなかったのですと受け入れることが、苦しいがとても大切なことだと思う。