ホウセンの煩悩箱

相場と煩悩 うぬぼれと内省の無限反復

今の自分を形造る業縁と阿頼耶識(あらやしき)

そうすると 、いのちは何に属するのか 。凡そこの世の中にあるものは二つしかない 。この世の中には色々あるが 、色々と言っていたら限りがないので 、この世の中に存在するものを大きく分けると二つあります 。それは何かというと 、一つは物質的なもの 。あるでしょう物質 、このごろはこればっかり大事にするんでないでしょうか 。高度経済成長なんてこと言ってますが 、これはみんな物質です 。それともう一つは心的なもの 。見ることも 、聞くこともできないのが心的なものです 。これは沢山あります 。まったく人間というのは複雑多岐にわたりますから色々の心のはたらきがあります 。この二つです 。この他にあったら教えて下さい 、第三の領域です 。しかし第三の領域は無いと言われております 。物理学と心理学の間には第三の領域に生理学と言われておりますがそれはまた話が別です 。存在を二つに分けた時 、物質的なものと心的なものとに分かれる 。そうすると阿頼耶識はどっちに入る 。もう分かりますねえ 、心的です 。そうすると 「いのち 」というものはものではないということです 。どうも現代の人間は迷いというか混乱があります 。もちろん迷いから混乱がきているけれど 、それはやっぱり自己に対する誤解じゃないですか 。いのちを誤解している 、いのちを物だと考えている 。だからいのちが疲れる 。これをストレスと言う 。疲れたらいのちをちょっと慰めてやったらいい 。それからいのちは多少栄養不良に陥るから 、養なわなければならない 。これは何かというと食事 。いいですか 、旨いもの食べさせたって 、少々楽しませたって 、益々いのちは痩せていくだけです 。なぜか 、これは物的なんです 。心的なものを物的なもので養うということはお門違いなんです 。まったく見当違いです 。いのちが心である以上は 、心は心でなければ養うことはできない 。そこに聞法ということの大事な意味があるんです 。僕はうちの門徒に言っています 。 「いのちは心でしょう 」と 、 「旅行に行ったら何かいのちを養うように思っとるけど 、疲れて帰っとるやろう 」 。本当にそうです 。我家の敷居をまたいだとたんに 「やっぱり我家はいいねえ 」 、だいたいアホですわ 。金取られて 、それで帰ってきて 、うまいもん食べて 。体は養われるかも知れん 、体は 、これは大事なところです 。やっぱり栄養ということを考えなければなりません 。これを考えないということは非合理ですから 。いのちが心であるということだけははっきりとしておいて下さい 。それを天親菩薩は阿頼耶識だと言った 。いのちは心である 、それで生きているんです 。ところがですねえ 、いのちは心である 、そのいのちがただ生きているというんではないのです 。何かそこに大事なものを持っている 、抱えていると言ってもいいです 。いのちは生きている 。いのちはただボ ーッと生きているわけでない 。それなら空へ上がっている 。そうじゃない 、基礎を持って地面に根をおろしている 。その基礎の問題を現実という 。いのちということから言えばこれは平等です 。私も皆さんも生きているでしょう 。いのちをいえば皆一緒です 。それは一日生きても 、百年生きても一緒です 。一日だからくだらん 、そうじゃない 、一日だけでも貴重です 。百年生きていても 、へたすると何でいきとるのやろうということにもなりかねません 。そういう点からいうと阿頼耶識というのは 、可能性としては何時の何処の誰でもいいわけです 。そうでしょういのちは平等だから何になってもいい 、いつの何処の誰でもいいわけです 。中には自分が気にいらん人もいる 。おもしろい人もいるもんでねえ 。肝心要の自分が気にいらん 、そんな罰当りの人間もいます 。俺みたいな本当にくだらん 、人ばっかり羨ましがっている 。そうしたらその人になったらいい 。何時の何処の誰でもいいはずの私が現実は厳しいですよ 。現実に甘えている 、もっと現実の厳しさを知らなならん 。今の此処の私は身を受けている 、此処に居る 。代れない 。今の此処の私 、これは現実でしょう 。これを外してはない 。阿頼耶の現実 、阿頼耶の状況 、阿頼耶はただそんな人だけではありません 。ある状況の元に存在しているわけです 。このことをはっきりしておいて下さい 。それなら 、その状況を与えているものはいったい何かという問題です 。阿頼耶は 、いのちは 、ただボ ーッとしているわけではありません 。大事なものを持っている 、抱えていると言ってもいい 。それは何かと言うとエネルギ ーを阿頼耶が抱えているのです 。阿頼耶が抱えているそのエネルギ ーを仏教では業という 。親鸞教学においては業という言葉をよく使います 。業というのは非常に大事です 。 「さるべき業縁のもよおせば 、いかなるふるまいもすべし 」 「されば 、そくばくの業をもちける身にてありけるを 」こういうように業という言葉は歎異抄に非常に深く浸透している大事な思想です 、考えかたです 。現実をふまえておられる 、そこが親鸞教学の中心です 。業というのは非常に厳粛なんです 。今の言葉で言うとエネルギ ー 、仏教の言葉で言うと業 、それが状況を作っていくんです 。たまたま状況が作られていく 。まあ 、力と言ってもいいです 。我々はそういう状況を作り上げる力を持っている 。そういう力を阿頼耶は抱えている 。それで 、この業によって何がもたらされるかと言うと 、まず寿です 。先ほど言いましたようにいのちは平等です 。ところがそのいのちに長い短いがあるでしょう 。このいのちの長い短いは業によるんです 。いのちの短いということは業が浅いんです 。それから 、いのちの長いということは業が深いんです 。深いと長生きする 。そう言うと何か年寄りはいらんもんやと 。それは殺生やと言うけど 、何も業が深いのは悪いことではないんです 。それはそうでしょう 、これは業ですから 。そんな人間の都合で長生きを決めるわけにはいかん 。業で決まるということです 。そういうわけで 、長生きの人もおれば短い人もいます 。僕も業が深いなあと感じます 、もう七十ですから 。もういいんです 。ところがもういいというところで終らんのです 、業ですから仕方がない 。その次に身です 。この体 、この姿 、それからこの顔 、これ業です 。業によって備わる 。親が産んだわけではないんですよ 、いいですか 。皆さんは皆さんの業でそんな姿にならなければならないように親が助けただけです 。そうでしょう 、私が私になって生まれてきたんだから 。親は縁です 、因ではないんです 。大根の種が大根になったんで 、畑が大根を産んだんではない 。大根が大根になるために畑が助ける 、そうでしょう 。間違ったらいかん 、恩があるだけです 。親には出たという恩があるだけです 。それから境遇です 。これは家があってねえ 。私は京都の伏見の専念寺 、猫の額みたいな小さな寺に育って 、今は寺の裏に居ます 。これは私の境遇です 。私の業 。大きなお寺に行くと 、本当に羨ましくて 、わしの寺なんであんなに小さいねん 、もう少し大きな寺やったらいいなあと思ったこともあります 。でも今はぜんぜん思いません 。これは境遇です 。今度は職業です 。我々はこうやって衣着て袈裟掛けている 、これも業です 。でもこの業を大事にしないといかんでしょう 。私はこの業のために仏教と出会った 。これがなかったら今ごろ何様になっていたか分かりません 。寺で育って 、それでご縁があって大谷大学に行って 、そして信國先生や曽我先生とご縁があった 。とくに安田理深先生とのご縁があったならばこそ 、今日こうなっているんです 。これもやはり業です 。大谷派の寺で育ったということがなかったら 、今日の私は何様になっていたか分りません 。何をやっていたかねえ 、力は無いから 、力は無くて多少頭はいいから詐欺師ぐらいか 。これも私の業に応じた仕事が与えられている 。それを喜んで味あわなければならんことでないでしょうか 。いやいややっている人間で成功したという話しは聞いたことありません 。成功した人の話しを聞いてみると皆喜んでやっている 。 「坊さんなんてつまらん 」 、そうでないですよ 。坊さんなんかつまらんと言っている奴が一番つまらん 。そんな人何をしたってできません 、潰しがきかんのです 。それから今度は人間関係です 。色々な人間関係 、これも業です 。まずは夫婦 。これも業が引っぱってくる 。業縁なんです 。縁というのは何か引っぱられることを縁と言う 。業が縁を引っぱるのです 。面白いもんですねえ 。うちの婆さんは 、うちに嫁が来る前から 「どんな嫁が来るんでしょうねえ 」とよく言っていました 。やっぱり気になる 。 「分かってるわい 、お前と同じ奴が来るわい 」と言ってやった 。業に応じた奴が来るんです 。本当によく似たのが来た 、妙なもんですねえ 。業縁です 。子供も又業縁です 。私の業縁によって親として 、子供として生まれてきてくれた 。孫も息子自身の業縁として生まれてきた 。孫の顔を見ていたら 、やっぱりこれも業縁だなあと思います 。業縁というのは私にきっちりと応った人がいるということです 。いいですか 、不足を言ってみようがないのです 。最後にもう一つ 、次から次へと出来事が起る 。何が起るか分かりません 。今回も二十六日に突然痛みが出たんですねえ 。それもやっぱり業によるんです 。私の業です 。そうしたら 、それだけで動けないようになった 、これは業です 。何が起るか分りません 。それはもう厳しいものだと思います 。そして 、私の遭わなければならない事にきちっと遭ってる 。この痛むごとに悪い事やってきた償いと思っています 。愚痴をこぼして 「痛い 、痛い 」と言いますけど 、でもこの痛みは私の業を果しているのです 。勢いにまかせて 、人にいやな思いをさせたりねえ 、何かしてきたんです 。それが全部返ってきてね 、そういうことだと思います 。そういうことで 、人生というのは存在は阿頼耶識 。それから状況は阿頼耶識の抱えている業に応じて 、次から次へと状況が現れてくる 。それで我々の生活が色々な経験をしていくということは種子の問題になるんです 。 「初ノハ阿頼耶識ナリ異熟ナリ一切種ナリ 」 (唯識三十頌第二頌 )という説がありますが 、時間がありませんのでお話しできません 。今日は存在と状況ということで終らせていただきます 。人間の生きている基礎です 、これを少しでも感じていただければ幸いだと思います 。


一九八三 (昭和五八 )年十二月一日大谷専修学院山科学舎

仲野良俊 「存在と状況」
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なぜ自分の身にこんなことが起こるのだろう、また、なぜ求めているときに求めていたものを備えた人やものが、絶妙なタイミングで目の前に現れるのだろう。

全ては自分の種子である因と、とりまく状況である縁の関係性でしかない。
全くの無もなければ、完全に独立した我もない。その両面がいろんな角度から切り口から自分にその姿をみせているだけ。


浄土真宗の書物だけだとやはり範囲が狭まって凝り固まる、しだいに他宗に対して批判的になる。同じ仏教なのに。


もっと基礎てきな、インドの天親菩薩の教学も読んでみるかなあ。