ホウセンの煩悩箱

相場と煩悩 うぬぼれと内省の無限反復

機と法の狭間に沈む

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お通夜のお勤め。
明日は葬儀。

もともとパン職人で6年間、広島の有名店に弟子入りして、朝から晩までクロワッサン折ったりフルーツ盛りつけたりフランスパンこねたり、ひと通り器用にこなせるようになって、師匠のお気に入り弟子だった。キャリアある兄弟子達が数人いたが、技術は誰にも負けなかった自負がある。

30くらいで独立、パリに自分の店持つって描いてたはずが、

それをどう踏み外せばそうなるのか、

実家の両親も仰天しただろうけど、、


こうして過疎地域の田舎寺の住職をしている。
もう僧籍取って4年かあ。


パン屋を辞めたのは、シェフが病的な寂しがりで、弟子たちは休日も社長家族に強制同行。プライベートゼロ。パワハラとかモラハラとか、世間のレッドゾーンは全部超えたと思う。コーヒーぬるいと正座&フルボッコで仕事させてもらえないとかよくあったなあ。

飲食業界の師弟関係はそんなんザラです。


んで、独立するなら傘下としてしか許さんといわれて大ゲンカして、辞めた。身体にガタが来てたのもあった。いろいろ限界だったなぁ。あの頃。


その時付き合ってたのが、寺の娘さんで。

まあ寺は寺で、住職はもう往生して、跡継ぎ候補がいなくて、そんなとこにパン屋辞める!言うてるのがいたら「丁度いいやん」いうて、婿入り。まー勉強したね、実家の宗派とも違うし、それまで唯物論者だったし、宗教なんて胡散臭いと思ってたのに。


そこから仏教書読んだ読んだ。


「機」というのは私のことで、救いようのない煩悩まみれの縁なき衆生のこと

「法」というのは佛のことで、迷いの世界から衆生を救う慈悲のはたらき

このふたつは別々でありながらもひとつのはたらき。

僧侶は「法」の側だと思われがちだけど、なんのなんの、思いっきり「機」の方で、まあ佛から見たら全員生臭坊主なんですよ。

「念仏とは自我崩壊の響き」と偉い和上さんは言った。
恩師の先生は「無我道の実践を」と繰り返し僕に言った。


人のため、なんて言って、自分の都合でしょ、と。


だから人生であれやこれや頑張ってみる、これ全部趣味。遊び。この娑婆、迷いの世界を離れて仏の世界で慈悲の活動相になるまでの暇つぶし。救うのは仏の仕事。

その間、できることは、「感謝」しかない。報謝行のみ。





だから僕は遊ぶ。

とにかく全部やる。


パン屋を辞めて、なんか音楽活動したくてビートボックスをした。

路上ライブも、ギャラ出るステージも、数え切れないくらいやった。公式大会も全国決勝大会最終予選まで行った。日本一はもういいや。
一部の天才に、凡人はどうやっても敵わない。


今度は相場の世界。

こりゃあ修羅の世界。

最高ですね。シビれます。



寺を金稼ぎの道具にして、表ヅラは聖職者ぶってる坊さんが大っ嫌いだ。

僕は、ドロドロの欲と恐怖が渦巻く相場から、金を取ってきたい。そして遊ぶ。




かつてお釈迦様は裕福な国の王子だった。贅の限りを味わい尽くし、大勢の美女を思うままに踊らせたが、ある時ふと「もういい」となった。そこからようやく宗教の扉が開かれる。



金なくて、ホントはレクサス欲しいくせに「お金はあればあるほど障りを大きくする」と言ってる超ダセェ住職がいる。




僕は「もうこれ以上お金いらない」と思ってみたい。

そこからが、ようやく宗教と本気で向き合える時間だと思う。